こういう場面、見たことありませんか。
「属人性を排除しよう」と決めて、マニュアル化やルール化を進めた。文書は整った。担当者が休んでも回るようになった。ところがなぜか、現場の判断の質そのものが落ちた。以前は自然にできていた「この場合はこう判断する」という勘所が、誰からも発揮されなくなった。
これは、やり方が悪かったからではないかもしれません。「属人性」という言葉の中に、そもそも別々のものが混ざっているからです。
「属人性」は、二つのものをまとめてしまっている
一つは、手続きの秘匿です。Aさんしか知らない操作手順。引き継ぎ不能な独自のExcel。文書化されていない作業フロー。担当者が休むと業務が止まる、というあれです。これは文書化・標準化・クロストレーニングで解消できます。「属人性排除」という言葉は、本来はここだけを指していたはずです。
もう一つは、判断・創造の人格性です。経験の蓄積から来るパターン認識。文脈を読む力。「この場合はどう判断するか」という勘所。これは排除しようとすると、価値ごと消えてしまうものです。
混同が起きると、何が起きるか
手続きの秘匿を問題視したこと自体は正当でした。しかし「属人性排除」という旗印が独り歩きし、判断・創造の領域にまで同じやり方で適用されてしまう。すると、こういうことが起きます。
判断をルール・プロセスに置き換えようとして、品質が落ちる。「マニュアル通りにやれ」が優先されて、文脈を読む力が育たなくなる。手続きをこなすことに価値が置かれて、そこで思考が止まる。
間違った診断が、間違った治療を生んでいるだけです。
「職人仕事」という言葉が、いい意味にも悪い意味にも使われるのも、同じ混同から来ています。手順を秘匿し、他人を排除するという意味なら悪い意味。経験と感覚の蓄積から来る、言葉にしにくい質の高さという意味なら、いい意味です。同じ言葉に二つの中身が同居しているから、議論が噛み合いません。
「排除できるか」ではなく、「何が転送できるか」
とはいえ、「排除できないから諦める」という話でもありません。問うべきは「排除できるか」ではなく、「何が転送できて、何が転送できないか」です。
転送できるのは、何をやるか——目的、判断の軸、方法論の構造です。転送できないのは、どうやるか——判断の中身そのもの、実行の質、関係の深さです。
人が変わっても、何をやるかが伝われば、後任は同じ方向で自分なりの判断を積み上げられます。これが、本当の意味での継続性です。目指すべきは「属人性の排除」ではなく、「判断の人格性を認めた上で、方向と基盤を共通化すること」です。
残すべきは、判断の中身ではなく、判断の方向
判断そのものは、結局のところ人に宿ります。無理に取り上げれば、価値ごと失われます。共通化できるのは、何を決めるべきか、どの軸で評価するかという、判断の手前にある構造だけです。
そこさえ共有できていれば、担当者が変わっても方向は失われません。判断の中身は毎回その人が下すとしても、向いている先はずれない。属人性を排除するのではなく、属人性が発揮される土台を、組織の共有物にする——目指すべきはそちらです。